72076 AH-1G コブラ M-35 ガンシステム ベトナム戦争
攻撃用ヘリコプターの歴史はベトナム戦争が始まりです。ゲリラ戦が激しく膠着状態だった地上戦において上空から低空より接近して火力制圧ができる武装化されたヘリコプターの必要性が高まりました。導入初期は人員輸送などに使われていた多用途ヘリコプター UH-1に重機関銃などの火器を搭載してガンシップ化したものを使用していました。しかし搭載できる武器が限定的であったり機動性などの問題から前線では能力不足でした。そこでアメリカのベル社によりUH-1をベースに再設計したモデル209を1965年に開発。この機体が世界初の攻撃ヘリコプターとなるAH-1Gヒュイコブラです。
1/32 AH-1G コブラ w/ベトナム戦争 US ヘリコプターパイロット
ルアンポーニム、カオ・ノイ寺院発行目的はベトナム戦争(1954〜1975年)へ行く兵士への配布。残りのプラクルアンは関係者や特定の寺院へ配布されたと言われており、第一号モデルは入手しにくく、タイ国内でも高額で取引されています。このプラクルアンの主成分は- プラタート寺院のプラ フォン スパン - プラクル寺院の一部- ランパシュー寺院のプラクルアン- バンクラン寺院のプラクルアン- バン・イホン寺院の寺院他寺院のプラクルアンと寺院の一部を混ぜて作られたレア品です。その他、縁起の良いとされる花粉、神聖な植物とされるの粉末、歴史価値のある場所からとった重要土が混ぜられています。とりわけ、三角形の形をしたプラタート寺院のファンスパンは遺跡群から見つかった、推定100年以上前のものであり、非常に歴史的価値のある材料を使用。ベトナム戦争ではベトナム兵がタイの兵士を『幽霊兵は倒せない』と例えたようにこのプラクルアンを身につけていた兵士は撃たれても、地雷を踏んでも、彼らは生き残ったといわれており、プラウトンのコブラがタイ兵士を守ったとされています。邪気、悪から身を守るプラクルアンです。プラクルアンのサイズ3.1cm×2cm×0.3cm※7枚目のケースは同封出来ませんのでご了承ください
こんな事誰も信じねぇぞ!(Holy shit !Nobody's gonna believe this !)」とバークは叫んだ。というのも、コブラの銃に備わっているスコープの両端が破損していたからである。つまり、ハスコックが撃った銃弾は、そのスコープを貫通してコブラの右眼を射貫いていたのだ。(上掲書 pp.15-16) コブラもハスコックをスコープで捕らえていたが、ハスコックの方がほんの一瞬だけ引き金を引くことが早かったため、コブラを仕留めることができたのである。このエピソードは『山猫は眠らない』に採用されていた。ジャングルで敵のスナイパーに追跡されたトマス・ベケット曹長は、自分のスコープでライフルを構える敵兵を捕らえ、その敵もスコープでベケットを捕らえていた。一流のスナイパー同士が対決する緊迫したシーンである。両者がスコープ越しに互いを捕捉した時、一瞬だけ早くベケットの弾丸が敵兵の目を撃ち抜いた。映画の観客は作り話だと思ったが、こうした驚異の狙撃は本当にあったのだ。
世間の注目は派手な銃撃戦に向けられがちだが、一匹狼のカルロス・ハスコックの功績も特筆すべきものが多い。例えば、「フレンチ野郎(French fag)」を抹殺した事が挙げられる。このフランス人は1954年にディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)が陥落したあとも、そのまま現地で農園(プランテーション)を営んでいた。というものも、彼は民族解放戦線を自称するベトミン(Viet Minh / ベトナム独立同盟会)やベトコン(Viet Cong / 南ベトナム解放を掲げる共産主義者)に協力したので、引き続き事業を許されていたのである。ところが、このフランス野郎は只の卑劣漢ではなかった。西側に背き、東側に寝返っていたのだ。ベトコンたちは彼のプランテーションを拠点にしたり、避難場所にしていたという。しかも、彼らは捕まえたアメリカ兵を農園に連行し、捕虜収容所として使っていたのである。本国のフランス人が聞いたら恥ずかしく思うだろうが、この裏切り者はアメリカ人捕虜をベトコンと一緒に尋問し、拷問にまでかけて楽しんでいたというのだ。(上掲書 p.203)
この事情を知ったハスコックは黙っていられなかった。爪先から頭まで愛国心の塊であるハスコックは、海兵隊員になるべくして生まれてきたような男だから、このフランス野郎を「ハンバーガー(挽肉)」にしてやろうと思ったらしい。ハスコックは彼が農園の邸宅近くで歩いていたところを発見すると、待ってましたとばかりに一発で仕留めたそうだ。百戦錬磨のハスコックにとっては造作もない任務であった。しかし、彼は狙撃の名手ではあったが、射殺を楽しんだことはない。ただ、彼が敵を撃たなければ、その敵が彼の仲間を殺してしまうから、大勢の仲間を救うためにもハスコックは射殺を続けていたのである。
ハスコックの活躍で多くのアメリカ兵が命を救われたことは確かである。中でも「アパッチ(Apache)」との綽名を持つベトナム人の女狙撃手を仕留めたことは賞讃に値する。この女兵士はアメリカ兵に対する憎悪に満ちており、捕まえたアメリカ兵を拷問することに喜びを感じていたらしい。彼女は捕虜を丸裸にして竹で作った柵に閉じ込め、ナイフで頬を斬りつけたり、生爪を一つ一つ剥がして苦痛を与えていたのである。そして、涙と血を流しながら呻(うめ)くアメリカ兵に、更なる激痛を与えたという。彼女は捕虜の指を無理矢理、手の甲に折り曲げ、指の関節を砕いた。右手と左手の小指をへし折ると、次は人差し指をねじ曲げ、20分おきにこの作業を別の指に繰り返したそうだ。周りのベトナム兵はその拷問を楽しみながら観賞していた。地獄の責めを受けるアメリカ兵は、たいてい10代か20代前半の若者だった。大ヒット映画『ランボー』のシルベスター・スタローンは、残酷な拷問に弱音を吐かずに、じっと耐えていたが、あんなのは真っ赤な嘘だ。どんな英雄でもひとたび拷問台に括り付けられれば、赤ん坊のように泣きわめくのが普通である。
(写真 / ベトコンの女性兵士)
アパッチの拷問を受けたアメリカ兵は全員死を迎えたわけでもなく、生き延びて基地に戻ってきた者がいたという。ただし、半殺しの目に遭ってだが。命からがら逃げ延びてきたアメリカ兵は、凄まじい虐待を受け見るも無惨な姿になっていた。アパッチは若いアメリカ兵を竹の柵に縛り付け、持っていたナイフを彼の性器にあてると、睾丸の部分を残したまま、ペニスだけを斬り落としたのだ。血塗れの男根が切り離されると、剔られた股間からからは大量の血が噴き出してくる。「もう長くはもたないだろう」と判断したアパッチは、この捕虜を釈放することにし、彼に向かって笑いながらこう罵った。「走りな ! GI。じきに医者が見つかるかもしれないよ。金網の方へ行きな。私たちは海兵隊が間違ってお前のケツを撃つのを見ていてやるからさ !」と吐き捨てたらしい。必死の思いで基地に辿り着いたアメリカ兵は、大きく手を振って、「敵ぢゃない。撃たないでくれ !」と叫んでいたそうだ。ジェイムズ・ランド大尉たちは、アパッチが仲間を「宦官」にしやがったと怒り狂っていたという。だから、ハスコックがアパッチを殺したことは快挙であった。
ハスコックは密林を駆け巡るスナイパーとして一流であったが、仲間への愛情に溢れる人物でもあった。1969年9月16日、彼はある悲劇に巻き込まれる。ベトナム中部の沿岸にチュー・ライ(Chu Lai)と言う港町があって、そこに海兵隊の基地(Landing Zone Baldy)、通称「第63高地(Hill 63)」があった。ハスコックは水陸両用車の「アムトラック(Amtrak / LVT-5)」に同乗し、ルート1を走行していたという。すると、この装甲車は対戦車地雷を踏んでしまい、爆発によって炎上してしまったのだ。当然、ハスコックも重傷を負ったが、彼は仲間を助けるべく、炎に包まれた車体の中に飛び込み、無我夢中で同乗者を引き摺り出したという。仲間の命を救ったハスコックは、2度ないし3度の火傷を負ったというから重症である。(「2度熱傷」だと真皮にまで達する症状だが、「3度熱傷」になると皮膚の全層にまで達する火傷であるから、皮膚が茶色になるか、壊死になって白くなるそうだ。) ハスコックは体の40パーセントに火傷を負い、テキサス州のブルック陸軍医療センターに運ばれたという。(Jon Thurber, , The Los Angeles Times, February 28, 1999)
重度の火傷を負ったハスコックは、引退を余儀なくされ、治療の為に皮膚移植手術を10回以上も受けたという。しかし、彼の苦悩は手術だけではなかった。彼は満額年金が下りる20年勤務に、たった55日間だけ足りぬということで、50%の年金額しか受け取れなかったのだ。これじゃあんまりじゃないか。ベトナム戦争で多くの敵を倒し、そのお陰で同胞のアメリカ兵が命拾いをしたのである。しかも、自らの危険を顧みず、炎上する車内から負傷者を救い出したんだぞ。これが英雄じゃなければ、誰が英雄と呼ばれるんだ?
ICM1/32 AH-1G コブラ w/ベトナム戦争 US ヘリコプターパイロット
Sasser and Craig Roberts, , Pocket Star Books, New York, 1990, p.166)
(左: 「ウィンブルドン・カップ」で優勝したハスコック / 右: スナイパー養成所で教鞭をとるジム・ランド)
射撃の名手たるハスコックは、海兵隊員が大勢犠牲となったベトナム戦争へと入って行く。彼は当時、最前線の一つとされた第55高地(Hill 55)に配属となり、ジャングルでの実戦で活躍することになった。ハスコックが銃を持てば鬼に金棒、ベトコン兵なんか野ネズミか七面鳥みたいなもんだ。彼が仕留めた敵兵は、北ベトナム軍兵とベトコンを含めて、合計93人と記録されるが、これはあくまでも公式な数字であって、実際は300人から400人くらいは殺したんじゃないかと言われいる。まぁ、戦場で射殺死体を数える審判は居ないから、公式記録が低くなっているのも仕方がない。しかし、ハスコックは手放しで狙撃の実績を喜んではいられなかった。狙撃の達人ハスコックを忌々しく思った北ベトナム軍は、彼の命に3万ドルの懸賞金を掛けたのだ。これは途方もない金額である。通常、アメリカ人狙撃手を殺して得られる報奨金といったら、標的のランクにもよるが、だいたい8ドルから2千ドルが相場であったからだ。(, Marine Corps Veterans News Letter, August 2015) したがって、この金額を見れば、ハスコックが如何に優れた狙撃手だったかが分かるだろう。
ハスコックたちの狙撃チームは多大な成果を上げたらしく、第55高地周辺で敵兵に殺される海兵隊員の死亡率は激減したそうだ。ランド大尉とハスコックはスナイパー養成プログラムで、訓練生に「一撃必殺(One Shot One Kill)」のモットーを叩き込んだらしい。事実、教官のハスコック自身が狙った標的は外さない名人なんだから、その言葉には重みがある。彼は北ベトナム軍将兵から大変恐れられたようで、「白い羽のスナイパー(Du kích Lông Tráng)」という綽名をつけられたという。なぜなら、彼は被っている迷彩帽子(bush hat)のバンドに白い鳥の羽を差していたからだ。こうした羽は一般的に「臆病者(チキン)」を意味するが、勇猛果敢なハスコックが身につけていたんだから、如何にもアメリカ人らしいジョークである。ハスコックによれば、狙撃手たる者は臆病なまでに慎重でなければならぬそうだが、敵対するベトコン兵からすれば恐怖のトレード・マークに見えてしまう。当時、同じ地帯にいた海兵隊員はハスコックの名声を利用していたらしく、わざと白い羽を地面に残して敵兵を怯えさせ、あたかもハスコックが近くにいるような印象を与えて、彼らを騙していたそうだ。
ハスコックの武勇伝の中で最も有名なのは、1967年に行われた「エレファント・ヴァレーでの戦闘(the Battle of Elephant Valley)」であろう。アメリカ兵がこの渓谷を「象の谷」と呼んでいたのは、実際にベトナム兵が象に大砲や弾薬を積んで、長い道のりを運ばせていたからだ。ハスコックはスポッター役のジョニー・バーク(Johnny Burke)伍長を伴って斥候に出た時、偶然にも北ベトナム軍の一隊を見つけてしまったという。ハスコックが観察したところ、彼らは単なるガキんちょだったらしい。そのカーキ色の軍服は真新しいし、亀の甲羅みたいなヘルメットには「へこみ」も無いし、使い古された痕跡も無い。担いでいるカラシニコフ銃は新鮮なオイルで磨かれているから、日光に照らされてギラギラしていた。これじゃあ、ど素人丸出しだ。(Sasser and Roberts, , p.142) 士官らしき者でさえ戦闘経験がなさそうに見えた。こんな部隊を目にしたバーク伍長は呆れ顔で、ハスコックに対し「こんなクソ野郎どもがいるなんて信じられますか?」と語りかけた。するとハスコックはこう答えた。「あいつらは、お祭り(jamboree)に向かうボーイ・スカウトだな」、と。
(写真 / ベトコン兵たち)
遠くからベトナム兵の一行を眺めたハスコックは、彼らを新米の集団と見越し、まず指揮を執っている上官を撃ち殺した。突然、目の前で統率者を失った新兵たちはパニックを引き起こし、直ぐさま田んぼの中にぽちゃんと倒れて腹ばいになり、近くの土手の方へ這いつくばって行ったという。こうなると怯えきったベトコンどもは中々土手から出てこようとはしないから、ハスコックとバークはじっくりと相手を待つしかなかった。こうした持久戦に我慢できないベトナム兵は、辺りの様子を確かめようとプレーリー・ドッグのように恐る恐る頭を上げていた。ハスコックには丸見えだが、彼は素人兵がもっと大胆な行動を取るよう、わざと見逃していたのである。しばらく射撃が止んだので、気を許した兵卒は近くの森へ逃げ込もうとしたらしい。しかし、土手と森の距離は約700mあったから、急いで走っても2、3分はかかってしまう。ハスコックにとっては格好の標的だ。案の定、その無謀な逃走を試みた兵がいたが、ハスコックの弾丸に当たってガマ蛙のように死んでいった。ハスコックがベトナム兵を「ハンバーガーども(hamburgers)」と呼んでいたのは、彼らが被弾した時、肉片が飛び散って挽肉のようになるからである。
ハスコックとベトナム兵の睨み合いは5日間も続き、その間、ベトナム兵は次々とハスコックが発射する銃弾で斃れ、どんどん数が減っていったそうだ。蒸し暑いベトナムの戦場では、焼け付くような日光のもとに放置された死体には蛆が湧き、黒い蠅が大量に群がってくる。土手に隠れているベトナム兵は、喉が渇いても田んぼの水を飲むわけにはいかない。なぜなら、濁った水には人糞や訳の解らぬ物が混ざっていたからだ。こうして日夜緊張を強いられるベトナム兵が疲弊していったのも当然だ。しかも、どこから狙撃されるのか分からないんだから、夜も眠ることができない。銃弾が命中すれば一瞬で仲間があの世行きだから、新兵にとって目に見えぬ敵の恐怖は想像以上である。ハスコックとバークは5日間にも亙る狙撃で、この部隊に大損害を与えて退却したそうだ。
もう一つ、ハスコックが残した伝説に、強敵「コブラ(Cobra)」との死闘があった。ハスコックはバーク伍長を連れてベトナム兵狩りに出た時、誰かにつけられているのを「第六感」で気づいたという。(Sasser and Roberts, , p.12) ジャングルや尾根を動き回る彼らを、コブラは執拗に追跡していたのである。そして、このベトナム人狙撃手は遂に行動を起こした。ハスコックとバークが尾根をつたって、辺りの様子を伺っていた時のことだ。太陽が照りつける静寂な森に、突如として天空を切り裂くような銃声が鳴り響いたのである。ハスコックは間髪を入れず、バークの方に目を差し向けた。彼は直ちに「バークが殺(や)られた!」と思ったそうだ。一方、銃弾を発射したコブラは、すかさず狙撃地点を離れ、相手に居場所を摑まれぬよう別の地点に移動していた。
コブラの銃弾を受けた相棒のバーク伍長は、「カルロス、撃たれちまった! アノ野郎、俺の尻を撃ちやがって !」と囁く。これには流石のハスコックも驚いた。ところが、バークから血が出ていない。流れていたのは水だけだった。ハスコックはバークに「あの野郎はお前の水筒を撃ち抜いたんだよ」と教えてやったそうだ。命拾いをしたバーク伍長は、どぎまぎしながら苦笑いを浮かべたという。(上掲書 p.14) 彼らは交互に相手のカバーをしながら、安全な場所へと身を隠したそうだ。(これはよくアクション映画で見られるように、一人が退却するのを相棒が銃を構えて見張り、退却した者が次に銃を構えて、その相棒を無事に退却できるよう見張ってやる手法である。)
双方との対決が一旦鎮まり、緊張の時間が流れていた。しかし、ハスコックにチャンスが訪れたという。彼の五感は研ぎ澄まされており、ジャングルに漂う敵の臭いや雰囲気、そして息づかいまでもが伝わってくるのだ。ハスコックは一瞬だが、遠くで光った「不自然な」輝きを見逃さなかった。コブラに違いないと思ったハスコックの指に電撃が走り、彼は条件反射的にライフルの引き金を引いたという。彼のウィンチェスター銃から放たれる弾丸は、電光石火の如く、200ヤード先の標的に命中。30.06薬莢の弾丸(slug)はコブラを撃ち抜いた。脳味噌が飛び散った狙撃手は、鶏のように地面でもがきながら絶命したという。
(左: スコープを通した見た標的 / 右: 狙撃を行う海兵隊員)
この銃撃戦の結果を確かめるべく、バーク伍長がコブラのもとに駆けつけると、信じられぬ光景を目にしたそうだ。「何てことだ !
個人的な目標も無事達成し、大大大満足してベトナムを去ったのでした。
最後になりましたが、研修旅行を企画して下さったベトナム航空の皆様、そして大変お世話になったツアーの皆様、誠にありがとうございました。
【スタッフおススメ度】
●ハロン湾 ★★★★★
クルーズ船で世界遺産の絶景を見ながら美味しいシーフードを食べる贅沢を是非!
●タンロン遺跡 ★★★
ハノイのど真ん中に1000年前の遺跡とベトナム戦争の戦跡が同居する不思議な空間。
●ハノイ旧市街 ★★★★★
どこを撮っても絵になる。角を曲がって新たな道に入るたびにわくわく。
●水上人形劇 ★★★★
水上を滑らかに動く人形の動きに魅了されるはず。伝統楽器の演奏も聞く価値あり。
(2014年7月 伊藤卓巳)
1/48 AH-1G コブラw/M-35 20mm砲 ベトナム戦争 ハイテックキット
コレクターズショーケース ベトナム戦争 CS01015C 米陸軍 M48 コブラ タンクセット 1:30スケール ミックスメディア
AH-1「コブラ」は、ベトナム戦争の教訓から生まれた世界初の攻撃ヘリ。スリムなデザインや革新的な機能が評価され、長年にわたり活躍。
AH-1G ヒューイ コブラ 初期型 [ベトナム戦争] (プラモデル)
ベル AH-1S コブラは、
陸上部隊支援用の攻撃ヘリコプターです。
コブラシリーズはベトナム戦争中に
輸送ヘリコプター CH-47 チヌークの護衛用として、
UH-1 イロコイから改良開発されました。
1/48 AH-1G コブラw/M-35 20mm砲 「ベトナム戦争」ハイテックキットの内容:スペシャルホビー製のインジェクションパーツに操縦席やミニガン砲身、ロケット弾ポッドやコックピット内装パーツ、クルーヘルメットなど多数のレジンパーツと操縦桿や照準器、消火器等の3Dプリンター製パーツ、キャノピー用両面塗装マスクシールにエデュアルド製エッチングパーツと4種類のスペシャルホビーオリジナルデカールが付属したお得感満載のセットです。
ICM 1/32 AH-1G コブラ w/ベトナム戦争 US ヘリコプターパイロット スケールモデル 32062.
軍事演習で一列に並んで編隊飛行する韓国陸軍のAH1Sヒューイコブラ攻撃ヘリコプター。米軍はベトナム戦争中の1964年、「発達型空中火力支援システム(AAFSS)」の開発プロジェクトをスタートさせ、ロッキード社のAH56シャイアンを採用したが、技術的な問題から実用化が遅れていた。そこで、汎用ヘリのUH1を攻撃型に再設計したAH1を暫定的に採用し、戦地に送ったところ、近接航空支援に大きな戦果を上げた。その後、AH56シャイアンは開発自体がキャンセルされ、AH1が米軍初の攻撃ヘリとして制式化された。
AH1は幅約1メートルとスリムな胴体に2人の乗員をタンデム複座で配置、機首に機関砲、胴体両脇のパイロンに外部兵装を搭載しているが、このスタイルが現在も攻撃ヘリの基本形として受け継がれている。ベトナム戦争後、対戦車攻撃力を高めた改良型のAH1Sは米陸軍のほか韓国、タイ、トルコ、台湾、日本、イスラエル、ヨルダン、パキスタンなどで採用された(2011年01月06日) 【AFP=時事】
ICM 1/32 アメリカ陸軍 AH-1G コブラ w/ベトナム戦争 US ヘリコプターパイロット プラモデル 32062 プラモデル.
” ベルAH-1Sコブラは、陸上部隊支援用の攻撃ヘリコプターです。
コブラシリーズは、ベトナム戦争中に輸送ヘリコプターCH-47チヌークの護衛用として、UH-1イロコイから改良開発されました。
イロコイからの主な改良点は胴体前部に集中しています。
イロコイの胴体前面面積を約1/3に減らし、パイロット、ガンナーをタンデム(縦列)に配置、胴体側面両側にスタビライザーウイングを追加、高速飛行時の安定性強化とミサイル、ロケット弾などを搭載するプラットフォームとして利用しています。
メインローターはドアヒンジ式ローターで、機体の高速化及び機動性の向上が図られています。
基本武装は機種に搭載されるエマーソン社製TAT102砲塔で7.62mm機関銃か20mm機関砲です、射手のヘルメット装置と連動した機首ターレットにより非常に高精度な射撃が可能です。
又、低空を比較的低速攻撃飛行するので敵からの攻撃を受けやすいため、コクピット内は防弾装備を完備しています。 コブラシリーズは主にアメリカ陸軍、海兵隊で使用され、タイプ及び形状は陸軍、海兵隊で違います。
陸軍仕様のコブラで最新タイプがAH-1Sコブラです。
このタイプはエンジンをライカミングT53-L-703ターボシャフトエンジンに換装、エンジンの高出力化に伴い動力伝達装置を強化していており、出力の増加は武装搭載量に余裕をもたらしました。
最大武装搭載量としてTOWミサイル8発、ロケット弾38発、機首に20mm3連機関砲及び弾丸760発という重武装です。
日本では、AH-1Sは富士重工でライセンス生産され陸上自衛隊で対戦車ヘリコプターとして配備され、OH-6ヘリコプターと組み合わせた対戦車ヘリコプター隊を北海道はじめ各地に形成しています。
キットは、往年のハセガワです。 デキは、シャープでカッチリした印象です。 オジサンからすると、フジミと比べると、比較的新しいキットに思えます。記憶が確かなら、1997年にE帯で発売されたような…違ってたらすみませんm(_ _)m 30年位前で「最近」と思ってしまうのが、年取った証拠かな… デカールは、「陸自 航空学校 霞ヶ浦駐屯地」 がインストでは基本ですが、エアインテイク前に付くアルファベットの違いで、第1~第5対戦車ヘリコプター隊、明野駐屯地、教育支援飛行隊、などが再現できます。 迷彩塗装は同じなんですね。 因みに、先日実家へ帰った時、押し入れにフジミのコブラがありました。 どちらが良いかは、好みでしょうか。 続く。
陸自中部方面航空隊 対戦車ヘリ「ヒューイ」、時速210キロ翼2枚…ベトナム戦争投入「コブラ」も運用 ..
ヘリコプターは飛行場を必要としないものの、開けた平坦地でないと兵員や物資の積み降ろしができない。特に前線ではヘリの着陸場所は限られてしまい、ベトナム戦争初期に米軍ヘリはベトコンの待ち伏せ攻撃で甚大な被害を被った。そこで、米陸軍は着陸地周辺を制圧できる火力を持った攻撃専門の武装ヘリAH1G「ヒューイコブラ」を開発、1967年に実戦投入した。海兵隊は単発だったAH1Gをエンジン2基の双発にした発展型AH1Jシーコブラを1970に採用。現在はその改良型であるAHIWスーパコブラを主力攻撃ヘリとして約170機保有し、沖縄県の普天間飛行場にも配備している。
海兵隊のヘリは沖合の強襲揚陸艦などから発進し、海上を長時間飛行することが多い。AH1Gを双発にしたのは海上でエンジンが片方故障しても、何とか陸地まで飛び続けられるようにするのが目的だったが、結果的にハイパワーと機体の余裕が生まれ、陸軍の攻撃ヘリよりも高い攻撃力を持つことになった。AH1Wは主ローターの直径が14.63メートル、全長17.68メートルで、固定武装の20ミリ多銃身機関砲のほか、2トン以上の外部兵装を搭載することが可能。1990年代の近代化改修により、夜間攻撃や長射程のヘルファイアミサイルの運用もできるようになっている。
陸軍は旧式化したAH1の後継としてAH64アパッチを導入したが、海兵隊は2000年にAH1Wをさらに発展改良したAH1Zバイパーを導入。ローターのブレードを2枚から4枚に増やして飛行効率を上げ、武器管制を高度化するとともに対空ミサイルの搭載も可能になった。今後、手持ちのAH1Wを順次改造し、攻撃ヘリ部隊の戦力アップを図ることになっている。
【買取】1/32 AH-1G コブラ w/ベトナム戦争 US ..
AH-1G コブラは攻撃ヘリコプターの設計であり、ベトナム戦争にて主にアメリカ軍の戦闘を支えた有名なUH-1 ヒューイから派生した攻撃専用に設計されたヘリコプターです。『War Thunder』のアップデート 1.81のリリースによりコブラが急襲してくるので、戦車兵の皆様は戦車のハッチの中から頭を出さないでおきましょう!
『War Thunder』では、アップデート 1.81によりAH-1Gコブラはアメリカ空軍研究ツリーに登場します。後に攻撃用に改良されたUH-1とは異なり、前回の開発者ブログでお話したUH-1Cヒューイ同様、コブラは初めから攻撃用ヘリコプターの役目を果たすために設計された武装ヘリコプターです。
すぐに目に付くものではないですが、AH-1G コブラは例を上げれば、尾翼部や回転翼、タービンエンジンなどのいくつかのヒューイの部品や
設計解を共有しています。エンジンと言えば、コブラはUH-1Cの1,100馬力より増加した1,400馬力を出力可能ですが、UH-1にも搭載されている
同じライカミング T53ターボシャフトエンジンを動力としています。
コブラのより小さなサイズと少ない重量と組み合わせられた強力なエンジンは、ヒューイよりもすぐれた操縦性を与えながら、最速で時速172マイル(時速277km)というスビートまで到達する事を可能にしています。しかし、ヒューイとほぼ同様にコブラの防御装甲は軽いままであるため、そのスピードと俊敏性を防御手段として使用する事が最も重要なことに変わりはありません。
AH-1Gが武装ヘリコプターの役目に使用されるための基礎から設計されたように、この機体が運べる武装の数と種類はUH-1Cと比べて大いに多様です。主要武装としてこの機体は、231発のグレネードを積むことができる40mmグレネードランチャーと対になっている、4000発の弾薬を装填できる6連式7.62mmガトリング銃を主に使用します。また、その他の武器の組み合わせも使用する事ができます。
それに加えて、コブラは小翼の下部に、追加のガンポッドや、榴弾や成形炸薬ロケット弾用のポッドなど、その他様々な副武装を搭載する事ができます。主要武装と組み合わせることが可能な様々な補助装備の選択肢により、コブラは、一方では主力戦闘戦車の司令官に対しての抑止力として、そのまた一方では軽装甲車両の操縦手達の絶対的な悪夢としてみなされます。
来たるアップデート 1.81のリリースによる『War Thunder』の空でのAH-1Gコブラの登場に目を光らせておきましょう。そして、次回の大型アップデートについてより多くの情報があるニュースに注目するようにしてください。それまでは、パイロットの皆様、安全な飛行を!その他の開発ブログ: The War Thunder Team